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August 09, 2005
ブゾーニ『トゥーランドットの音楽に』翻訳
ブゾーニのエッセイ集『音楽の単一性について』から Zur Turandotmusik という文章の翻訳です。原文は見開き2ページで、これで全部です。まあよくわからんところもあるのですが、ないよりはましということでご勘弁。
トゥーランドットの音楽に
ベルリン、1911年10月
専門外である批評や文学史の領域にはなんとか迷い込むことなく、ゴッツィの『トゥーランドット』への私の音楽と,私に課せられた課題に対する私のかかわりに関してのみ,少しばかり前置きをさせていただこうと思う。
ドイツ音楽においては,語られるドラマのための音楽は、古典の模範がいくつかある。ベートーヴェンの『エグモント』,シューマンの『マンフレッド』,メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』,さらにはヴェーバーの実に面白い半オペラ『オベロン』。それに対してイタリアの音楽では、このような種類と形式を私は知らない。だから私はゴッツィの『トゥーランドット』に対する私の音楽を,イタリアの戯曲を音楽的に「説明する」最初の試みとみなしている。ゴッツィ自身,たくさんの音楽を指定している。しかもそのような箇所には,当然あらわれる行進曲や舞曲のリズムだけでなく,なにより素材のメルヘン的な性格が示されている。実際,音楽抜きの「メルヘンドラマ」というものはほとんど考えられないし,特に,魔法の出てこない『トゥーランドット』では,超感覚的な,非日常的な要素を描き出すという,やりがいのある,不可欠な役割が音楽に与えられている。私はもっぱら本物の東洋のモチーフと表現形式を用いた。そして紋切り型の劇場的エキゾチズムと関係を保っていると思う。
私が『トゥーランドット』を作曲したとき,当然イタリア語の原書は手元に持っていたが、シラーの脚色版は考慮しなかった。なぜなら私はシラーの作品は脚色であって翻訳ではないとみなしており、シラーを用いると、ゴッツィの精神から遠ざかるという感じを持ったからである。私にとって本質的なことは、一貫して―悲劇的なものと隣りあう場面においてさえ―大事なのは遊びだという感覚が、シラーにおいては全く脱落しているということである。この効果のためには、主として、ヴェネツィアの観衆と舞台の間に架空の東洋の間の橋をかけ、そうして本当の出来事だという錯覚を再びぶち壊す、イタリア人にはおなじみの仮面の登場人物が貢献している。この仲介役は特に、ヴェネツィア人の機知を体現し、故郷の町に対するほのめかしと方言の言い回しによって絶えず周囲にある現実を思い出させるパンタローネに振られている。情熱と遊び、現実と非現実、日常性とエキゾチックな幻想の、この一貫した多彩な交代こそ、ゴッツィのこの「中国の劇場メルヘン」において、私を最も刺激したものなのである。(ドイツ劇場報)
(Ferruccio Busoni: Von der Einheit der Musik, Max Hesses Verlag, Berlin, 1922, S.172-173)
投稿者 Hayes : August 9, 2005 06:13 PM
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コメント
翻訳ご苦労様であります。こういう文章が日本語で読めるのはほんとに嬉しいことですし、是非ともブゾーニの「トゥーランドット」を聞いてみたくなります。ありがとうございました。
投稿者 unioh : August 17, 2005 03:17 AM
uniohさん,こんにちは。
どうもありがとうございます。二つ下のエントリーで人さまの翻訳にケチつけてるのに自分のもまあ意味不明の文もあったりするのですが,またなにか気が向いたら出します。ブゾーニの『トゥーランドット』は非常に面白いオペラなのですが,DVDも国内盤もないせいか(昔,一応ANFというところから対訳付きで出てはいたのですが)あまり知られてないのは残念です。大阪音大の上演は面白かったなあ。
投稿者 Hayes : August 17, 2005 12:07 PM